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法然上人の生涯
1133年に生まれ美作国(現岡山県)の地方豪族の漆間時国の息子として生まれた。幼名を「勢至丸」という。
1141年春、荘園領主の明石定明に夜襲に遭い父が討たれた。
父の遺言
「恨んでもならぬ。うらみを抱き、そちがそのうらみを晴らしたとしても、相手方の遺児がまた仇討ちをしよう。
そして、世々その仇は尽きぬ。うらみを抱いて生きるよりも、うらみのない安らぎの心を手に入れるがよい。
それがわしの菩提のとむらいとなろう。」
この一言が息子、後の法然上人に大きな影響を与えた。
勢至丸、仏門を叩く~法然房源空誕生~
父亡き後、叔父の観覚の寺菩提寺に引き取られる。観覚は母の弟にあたる人だった。
この時、勢至丸は九歳でした。
勢至丸は数年で習熟し、15歳の時に比叡山の寺宝房源光に預けられた。
源光は勢至丸の才能に気づき、学僧の功徳院皇円に預けられた。ここで正式に剃髪し出家をしています。
勢至丸が主に勉強していたのは、天台宗の天台大師智顗の著書「天台三大部」でした。
この「天台三大部」をわずか三年で読破し、周りから栄達を望まれる。
しかし勢至丸は
「救いや解脱を求めているのに、栄達をも求めるのは欲張りだ。
自分が救われ、そして人も救われる。それが本当の意味で父の遺言を守る事ではないのか。」
と、久安六年(1150年)18歳の時に仏教の教えを貫くため「法然房源空」と名乗り、ひじり(名利を捨て、生涯にわたって無位無官の身となる僧)になる。
法然とは、仏法が自然に宿っている、という意味である。
ひじりとなった後も、仏道修行に励み宗派にとらわれず多くの経典を読み心の安らぎを得ようとした。
法然房源空、仏門を探す
保元元年(1156年)鳥羽法皇が死ぬと、皇位継承の争いが激しくなり(保元の乱)、さらに三年後には貴族内部の争いである平治の乱が勃発。
仏教界でも争乱が絶えず、市中や田畑に死骸が横たわり、庶民たちは仏像に手を合わせるしかなかった。
法然は「生身の釈迦像」と呼ばれていた釈迦如来立像へ参篭していた時に、
「法を求めているのは出家者ばかりではない。救いは出家者の為だけに必要なのではない。これら多くの人々を等しく救わずに何が救いなものか。」
と気づく事になりました。
以降、出家者はおろか一文字も知らない様な衆生も救われる仏の道を探していく。
往生する為には、一心に念仏をする。
念仏とは阿弥陀仏の名を口で称える事であり、心を定め念いを観じる念仏である必要があった。(称名念仏)
それを十念の間ずっと行わないと往生が出来ないとされていました。
それでは衆生は救われない。難しすぎるのだ。
1175年の春、法然43歳の年、ついに発見する。
身分や生まれや貴賤を問うことなく、専修念仏によって誰一人残さず救われる。
心乱れていれば乱れるままに、煩悩があれば煩悩のまま、念仏(専修念仏)によって阿弥陀仏は救ってくれる。
念仏を唱える事(専修念仏)が阿弥陀仏の本願である救いになる事を悟った。
法然上人の教えが広まる
法然上人の教えが広まるにつれて、
念仏さえ唱えれいれば悪いことをしてもいいのだと思い違いする者が現れだした。
門徒には戒めの箇条書(七箇条制誡)を出した。
しかし、元久二年(1205年)に他宗派八つに談合され、法然上人の専修念仏は九つの過ちを犯しているという「興福寺奏状」を後鳥羽上皇へ提出。
これの決断が出される前に、専修念仏の安楽房と住蓮房が開いていた別時念仏会にて朝廷の女官を無断出家させた事件をきっかけに、法然上人は土佐へ流罪となります。
この時、安楽房と住蓮房は死罪になっています。
上皇の命令によって法然上人は俗名源元彦と改名、僧籍剥奪され還俗、土佐流罪の刑は僧に対する最も重い刑罰でありました。
建暦元年(1211年)に帰洛を許され、京都へ帰った。そして年が明けてすぐに病床につき、80歳の正月25日に入滅されました。
法然上人が形見として念仏の肝要を短く記した「一枚起請文」を書きあげた2日後の事でした。
一枚起請文については「一枚起請文についてのページ」一枚起請文についてのページへ