法然上人は多くの教えを残されましたが、その中でも特に個人的に好きなのは行は信を立すという言葉です。
これは、行動することで信心が深まるという意味で、仏教の実践において大切な考え方です。
例えば、お念仏をまだ十分に信じられなくても、実際に唱え続けることで、やがて信心が自然と育まれていく、ということを示しています。
これはスポーツや楽器の練習と似ています。最初は上手くできなくても、続けるうちにコツをつかみ、自信がついてくるのです。
法然上人は、念仏を称えることをすべての人に勧めました。
当時の仏教は、厳しい修行を積まなければ救われないという考えが強かったのですが、法然上人はどんな人でも、お念仏を称えれば阿弥陀さまに救われると説きました。
だからこそ、「信じてから行動する」のではなく、「行動することで信心が生まれる」という考え方が大切なのです。
私もお念仏の大切さは学んではいましたが、ピンと来ませんでした。
それでも毎朝のお勤めをする日々で興味を持ちより学び、信心を育む事ができました。
目次
信じているから行動するのではなく、行動するから信じる
多くの人は、「何かを信じたからこそ行動できる」と考えがちです。
しかし実際には逆で、まず行動することで、信じる気持ちが生まれるというのが真理です。
学びだけでは成果は得られない
例えば、英語を話せるようになりたいと思ったとします。
本を読んで文法を学ぶことは大切ですが、それだけでは話せるようにはなりません。
実際に英会話をしてみて、少しずつ単語が通じる経験を重ねることで、
「あ、英語って通じるんだ!」
と自信がつき、学ぶ意欲も高まるのです。
つまり、知識を得るだけではなく、行動することで初めて成果が見えてくるのです。
信仰においても同じことが言えます。
お念仏を称えれば阿弥陀さまに救われる
と学んでも実際にお念仏を称えなければ、その実感は湧きません。
最初は半信半疑でも、毎日お念仏を称えることで自然と心が落ち着いたり、不安が和らいだりすることを体験すると、
「阿弥陀さまに守られているのかもしれない」
と感じるようになります。
このように信じるから行動するのではなく、行動を積み重ねることで信じる気持ちが育つのです。
小さな行動が信仰を深める
ある研究によると、人は「やり続けたことに意味を感じる」という心理を持っているそうです。
例えば筋トレを始めた人が、
「せっかく1ヶ月続けたのだから」
と思って継続するうちに、筋トレの効果を実感し
「やっぱりやってよかった!」
と確信するようになります。
信仰も同じで、たとえ最初は実感がなくても続けていくうちにその価値を感じるようになるのです。
お念仏も、いきなり何百回も称える必要はありません。
まずは1日1回でもいいので「南無阿弥陀仏」と唱えてみること。
それを習慣にすることで、少しずつ信心が深まっていくはずです。
行動を積み重ねることで、信仰が育ち、心の平安へとつながります。
「行動するからこそ信じるようになる」
のです。
お念仏を称えることが信仰の第一歩になる理由
信仰と聞くと、「心から信じることが大事」と思うかもしれません。
しかし浄土宗の教えでは、
「まずはお念仏を称えることが信仰の第一歩」
とされています。
これは、浄土宗の開祖である法然上人が強調された大切な考え方です。
なぜお念仏が信仰の入り口なのか?
法然上人は、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、誰でも阿弥陀仏の救いを受けられると説かれました。
なぜなら、阿弥陀仏がすべての人を救いたいと願い、その誓いのもとに極楽浄土を用意されたからです。
そのため、特別な修行を積まなくても、ただお念仏を称えることで阿弥陀仏のご加護を受けることができるのです。
例えば、子どもが親に向かって「お母さん」と呼ぶと、それだけで親は振り向き、子どもを気にかけますよね。
同じように、私たちが「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏が私たちを見守り、救いへと導いてくださるのです。
最初は実感がなくても大丈夫です。
お念仏を称え始めたばかりの人は、「本当に意味があるの?」と思うこともあるかもしれません。
私もそうでした。
こんな事して何かあるのか。ととても半信半疑でした。
この時間を他の事に使ったほうが有意義ではないか、常に思っていました。
それでも、毎日お念仏を称えるうちに、次第に心が落ち着き、安心を感じるようになりました。
これは、現代の私たちにも当てはまります。
もっと身近な事を言うと、運動を始めたばかりのときは、すぐに効果を感じることは少ないです。
ですが、続けるうちに体が軽くなり、健康の変化を実感するようになります。
お念仏も同じで、「まずは称えてみる」ことが大切なのです。
法然上人が説かれたように、「お念仏を称えること」こそが信仰の第一歩です。信じようとする前に、まずは一声、お念仏を称えてみませんか?